尾張藩下屋敷

尾張徳川家


尾張藩 ( 画像は名古屋城 ) は、江戸に 総坪数 31万1000坪余
にもなる屋敷を所持
数ある 江戸の諸大名のなかで 最大規模の屋敷を連ねていました。

◆ 尾張藩屋敷 【市谷屋敷】は、当主の住まいで、政庁も置かれた。 × 1
 
◆ 尾張藩屋敷 【麹町屋敷】は、江戸城外堀の四谷門内(現東京都千代田区麹町) 
    総坪数1万7870坪余あった。 × 2
◆ 尾張藩屋敷 【戸山屋敷】は、和田戸山(現新宿区戸山〉におかれ別邸とされた。

◆ 尾張藩屋敷は、江戸初期 南八丁堀にあったが、明暦の大火のあと築地地区の埋立地→  「築地市場」へと 変化した。 × 6

 ※ 上屋敷は、明治4年(1871)、兵部省用地として召し上げられ、以後は一貫して陸軍用地となり、現在は防衛省の敷地となっている。


そして、その内最も広大であったのが、戸山荘として名付けれらたのが、下屋敷でした。

その敷地坪数 何と16万坪

早稲田から文京区まであった「巨大古墳の跡地」を、 そっくり使って、
東京ドーム何個分の平米数の庭を、箱根の町並みそっくりに 「箱庭」※として造成

 「山や海を似せての箱根山や、清流、家屋・建物 他、街道の縮小模型」 に仕立て
 参勤交代の大名・家族が訪れる 江戸の一大観光地」 にも していたそうです。




 尾張藩下屋敷戸山荘図巻 デジタルアーカイブ ( 国会図書館蔵 )

「箱庭」
庭園としてそっくり箱根の街並みを再現し、街並みには民家だけではなく酒屋や薬屋、本屋
等が軒を連ね、その数30数軒あったとされています。

店内には商品も並んで、将軍の御成りの時は、実際に販売もされたとのことです。

御成り時には、事前に必ず、穴八幡に立ち寄り、放生寺にて食事を取り、傍の神明車力門から庭園に入るのが常であった とのことです。
 
※ 11代家斉や12代家慶も訪れ楽しんだという記録があるそうです。




 : 街並みの様子

中には寺社仏閣の他、海や川を模したものがあり「滝」の瀑布で涼を得ていました。


↑ ↑
上図 「戸山御庭の図」 :


池には龍の様に水が登る仕掛けの「龍門の滝」が作られていたそうです。

滝が移籍された「徳川園」のHPより引用:
 寛文9年(1669年)二代藩主光友の頃に造営が始まった尾張家江戸下屋敷(戸山屋敷)では、当代随一と言われた庭園を有し、園内には「鳴鳳渓」と呼ばれた渓谷を構成する龍門の瀧がありました。鳴鳳渓は、渓流の飛石の上を渡りきると急に龍門の瀧から落ちる水が増して石が水中に没するという趣向が凝らされたもので、当時園遊会に招かれた将軍や諸大名は、大変驚き、また、喜び楽しんだと言われています。
 戸山屋敷は現在の東京都新宿区の戸山町辺りで、今では面影を残す場所も数少なくなりましたが、平成10年(1998年)に早稲田大学の敷地内で江戸時代の大規模な石組みが見つかりました。早稲田大学と新宿区教育委員会による発掘調査の結果、戸山屋敷にあった龍門の瀧の遺構であることが確認されました。
 発掘された石材は、伊豆石と呼ばれる安山岩で、総数約360個、総重量約250tに上り、江戸城築城の余り石と推定されています。徳川園では、早稲田大学から譲り受けたこれらの石材を滝の布落ちや護岸、河床、飛石などに用いるとともに、水量を急激に増す仕掛けを取り入れて、戸山屋敷の龍門の瀧を蘇らせました。

  箱根といえば 富士・・・ 東海道を上がってくる大名たちは別として、江戸詰めの武士たち用の、「富士講」 として、富士詣で のミニチュア版を作っていたのでは ? と私は考えます。




 そして後に作られたのが 「高田富士」 江戸最初の「富士塚」でした。

高田富士の解説

安永9年(1780)、大先達 日行藤四郎が身禄同行という富士信仰の人達(富士講)と白い行衣を身につけて、富士山頂の岩や土を運んで9年5ヶ月の末、ついに富士塚を築きました。
 ※藤四郎の富士登拝は、58回ともいわれています。

 御山は高さ10m、江戸の人造富士中 最大最古のものです。





まだまだ 話は続くのですが・・・ 年末の為(おせちを作成中です)

 又 書きますね♪





 一陽来復 時に 是非 お立ち寄りください。


 場所は・・・・ 此処♪

 「お薦めです」よ♪